中小企業診断士で『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』の著者である森岡健司氏が、戦国武将や歴史の偉人たちの戦略を解説する本連載。織田信長編、渋沢栄一編に続き、第3回は茶道を極めた千利休(せんの りきゅう)と、その弟子で戦国三英傑に仕え、織部焼の祖として知られる古田織部(ふるた おりべ)にスポットを当て、「ファンマーケティング」の観点から二人の茶人を解説します。
漫画やアニメ化などもされた『へうげもの』を読んだり見たりした人なら、利休と織部が戦国時代をどのように生き、そしてどのように権力者に警戒され、どのように散っていったのかはご存知でしょう。彼らと同様に、権力者から重用される茶人としての道を歩みつつ、なんとか生き長らえた小堀遠州(こぼり えんしゅう)などと比較をしながら「ファンマーケティング」の功罪を学ぶとともに、炎上リスクの回避方法についても考察します。
企業マーケティングでファンマーケティングやSNSマーケティング、LTV向上、炎上回避などに取り組んでいる人はぜひ参考にしてください!
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目次
戦国武将に影響力があった茶湯
日本の伝統文化の一つである茶道をご存じでしょうか?
茶道は華道、香道を合わせて三道と呼ばれる伝統的な芸能文化の一つです。香道の代わりに書道が入る場合もあります。
以前は花嫁修業という名の元で、礼儀作法を学ぶために習うことが多かったようですが、現代では純粋に日本の伝統芸能や文化の一つとして学ぶことが増えてきていると思います。
茶道はその字のごとくお茶を立てて、その味を楽しむものではありますが、一番の目的は「おもてなし」にあります。
亭主は客人にお茶を振舞う作法だけでなく、茶室や茶道具によって生み出される空間・雰囲気を楽しんでもらうために尽くします。
そして、客人もまた亭主が作り出したその空間を堪能する姿勢が大事となります。
茶道はお互いの精神的な交流を深める機会となるものです。これは茶湯(ちゃのゆ)と呼ばれた戦国時代においても変わらないものです。
また茶湯をふるまう空間においては、亭主と客人があるだけで、外界の身分を問わずに、一椀のお茶を平等に楽しむ事を理想としています。
このような非日常的な空気に触れるうちに、それを提供してくれる亭主に憧れ門弟や弟子となる者も出てきます。亭主を中心としたコミュニティを形成していきます。
戦国時代から江戸時代にかけて、武士たちも茶湯を通じて他者との関係性を深め、愛好者によるコミュニティを形成しています。
ファンマーケティングとは
昨今、新しいマーケティング手法として、ファンマーケティングが注目されています。
ファンマーケティングとは、自社の商品やサービスを一過性、一方的に売りつけるのではなく、愛着を感じて中長期的に購入してくれるような厚い支持を獲得するものです。
企業やブランドに対する強固な支持層を得ることができれば、収益の安定化も期待できるため、多くの企業がファンの獲得・育成に取り組もうとしています。
ファンマーケティングを簡単に言うと、自社ブランドや商品・サービスの熱烈なファンになってもらうための企業活動です。
ファンマーケティングの手法は数多くあります。その代表的なものとして「ファンミーティング」「ファンコミュニティ」「SNS等オンラインでの交流」「サンプリング体験」などがあります。
1.ファンミーティング
企業と顧客が交流するための場所を提供することで、両者の関係性の密度を強めます。
基本的には特定の顧客を招待する形で行われます。そのため招待された顧客は特別な場所に呼ばれたという優越感を感じる事ができます。
対面で行う事で企業側の人となり、顧客側の人となりに触れつつ、同じ空間を共有することで、それまで以上に親密度が増すと言われています。
2.ファンコミュニティ
企業やブランドのファン同士が交流するための機会を提供することで、ファン間の絆を深めます。
基本的には企業側があまり介在しない形で行われますが、熱烈なファン同士が交流することで、さらに帰属意識を高める効果があります。ファン内部での競争意識が醸成されたことで、収益拡大に繋がることもあります。
3.SNS等オンラインでのネットワーク
企業の公式SNSアカウントなどを通じて、ファンとの交流を図りネットワークを形成する手法です。
SNS等を通じて情報発信をすることで、対面や電話などよりも気軽にやり取りができるため年々、その運用の重要性が増しています。このような交流によるネットワークの形成は、帰属意識を高めるために必須な要素です。
4.サンプリング体験
限られた顧客に特別に先行して商品やサービスを体験してもらう事で、ファンの育成を図ります。
意見や感想の収集や口コミによる認知度拡大を目的としても利用されます。
これらの手法を通じて熱烈なファンを獲得・育成していきます。
千利休が完成させたと言われる茶湯を通じて行われていた事は、これらのファンマーケティングの手法を先駆けていたような点が多々あります。
結果的に、利休の茶湯に触れるうちに、多くの戦国大名が門弟や弟子となっていき、利休は豊臣政権内で大きな影響力を有するようになります。
またその手法を継承した古田織部など利休の門弟たちも影響力を持つようになります。
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商人から茶人となった千利休の事績
利休は、現在の大阪府堺市にあった自治都市堺において、商人 田中与兵衛の元に生まれたとされています。
若いころに同じ堺の医師 北向道陳から茶湯を習い、その後、豪商で茶人としても有名だった武野紹鴎に師事したと言われています。最近では紹鴎ではなく、辻玄哉から学んだという説もあります。
1544年ごろには、若くして茶会を開くようになります。また堺に影響力を有するようになった三好家と繋がりを持つと、御用商人としての地位と財を築くようになります。
織田信長が台頭し堺を支配下に置くようになると、今井宗久や津田宗及とともに茶堂として仕えるようになります。
利休はこうして時の権力者との繋がりを深めつつ、堺の会合衆として町の運営にも携わるようになったようです。
商人としては鉄砲など武具の調達など、信長の天下統一事業を裏で支える役割を担っていたようです。ただし、この頃は今井宗久の方が信長から重用されており、堺周辺のエリアを治める代官に任命されています。
本能寺の変の後、信長に代わり権力を握った豊臣秀吉によって、利休が重用されるようになります。
そして茶堂の筆頭のような立場も得て、豊臣政権下の諸将たちから尊敬の念を抱かれるようになります。
大友宗麟が秀吉に支援を求めてきた際には、豊臣秀長から「表向きの事は私に、奥向きは利休に相談するとよい」と、アドバイスされるほどに豊臣政権内部で強い発言力を持つようになります。
しかし、利休は突如として秀吉から切腹を命じられます。この理由には諸説あり、未だに明確なものがまだありません。
ただ、利休が茶湯を通じて獲得したファンの多さは、看過できないほどのものになりつつありましたので、それが原因とも言われています。
秀吉に警戒された千利休のファンコミュニティ
戦国時代において、先進的な文化として公家や町人たちから愛された茶湯は、荒々しい戦国武将たちにも、嗜みの一つとして受け入れられました。
茶会の開催権や有名な茶器を褒美とした信長の影響は大きく、家臣の滝川一益は武田征伐の報奨に、上野一国よりも茶器を望んだという逸話が残されています。
利休が完成させたわび茶に魅入られた者は多く、蒲生氏郷、細川忠興、高山右近など文武に優れた武将が利休に師事し、後に利休七哲と呼ばれるほど心酔しています。ここには、利休の意志を継ぐ事になる古田織部も含まれています。
茶室という身分や上下関係を排した特別な空間での亭主からのもてなしは、まさに特別に招待された「ファンミーティング」のようであり、親密度を高めたと思います。
また、門弟同士が茶会を開くことで自分たちの知識や技術を高め合い、情報交換の場としながら、お互いの関係性を強化する点も、「ファンコミュニティ」と似ています。実際、蒲生氏郷は高山右近の勧めでキリシタンとして洗礼を受けています。
「SNS等オンラインでの交流」ができない時代でしたが、利休は蒲生氏郷や古田織部などと書状で近況報告などのやり取りを頻繁に行っていたようです。
利休は自身が鑑定や評価をした茶器や道具を茶会などで披露するなど「サンプリング体験」を行い、その売買から利益も得ていました。
これらの活動によって利休七哲と呼ばれるような熱心なファンが醸成されていました。
この状況を秀吉及びその側近たちが警戒し、利休の影響力低下を狙った結果、最終的に切腹に辿り着いてしまったのではないかと思います。
そして、この茶湯を発展継承するのが門弟の古田織部です。
武士から茶人となった古田織部の事績
利休七哲に数えられる古田織部は名を重然と言いますが、通称の織部の方がよく知られています。
山田芳裕氏の戦国時代を舞台にした大人気漫画『へうげもの』の主人公としても有名です。
織部は本来、現在の岐阜県である美濃国の国人を出自とした武士階級で、信長の家臣となり上洛計画にも従軍しています。
その後も中国攻略や甲州征伐などに参加し武将として活躍しています。
本能寺の変後には、秀吉方として戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、四国征伐など主要な戦に出陣しています。
しかし、1万石の大名となるのは、関ヶ原の戦いで東軍に属して活躍してからで、武家としての評価は茶人としての評価ほど高くなかったようです。
茶人としての織部は1582年頃には利休に師事していたと言われています。
利休の死後、そのわび茶を元に自身の考えを組み入れて、現在の茶事の形式を作り、広く認められるようになります。
二代将軍 徳川秀忠に茶湯を指導する指南役になります。江戸時代を通して将軍家の元で行われる柳営茶道の祖と言われるようになります。
しかし、1615年の大阪夏の陣において、豊臣方との内通を疑われて、織部父子は切腹を命じられ、御家断絶となります。
これは譜代や外様を問わず全国の大名、そして公家や文化人に及ぶ織部の影響力が幕府に警戒されたとも言われています。
家康に警戒された古田織部のネットワーク
織部は利休の静謐さとは違った動きのある茶器や茶道具を好んで取り入れて、独自の織部流を生んでいます。
利休亡き後は、秀吉の筆頭茶堂となり、大名たちがこぞって織部に茶湯を学んだと言われています。
織部は茶器や茶道具の創作にも力を入れて、利休の理路整然としたデザインではなく、斬新で奇抜な色遣いや形状のものを作り、織部焼としてコミュニティ内で販売しています。
ここでの評判がよかった茶器は市販もしていたと言われています。現代のサンプリング体験に似ています。
伊達政宗や佐竹義宣、浅野幸長、加藤嘉明、毛利秀元に加えて、徳川譜代の大名である大久保忠隣、本多正信、土井利勝、榊原康勝など幕府の枢要な地位にいる者たちも師事したようです。
高弟として知られる小堀遠州や金森可重、上田宗箇は、その後の茶湯の発展に大きく貢献していきます。
一方で武士だけでなく、公家の近衛家や本願寺家とも親しく交わっています。これらの弟子たちとは自筆の書状でやり取りをして交流を深めています。
そして、茶湯指南役として江戸幕府で重用されるようになると、加賀藩、尾張藩、長州藩、仙台藩、熊本藩などの大藩が織部流茶法を用いるようになります。
幕府をバックに織部のネットワークも全国規模に拡大し、深く浸透していきます。
しかし、豊臣家や朝廷を統御するために神経を使っていた幕府からすると、このネットワークは警戒すべきものでした。大阪の陣で豊臣家が滅ぼされると、京都所司代 板倉勝重に内通の嫌疑を掛けられます。
織部は利休と同じようにいっさいの弁明をせずに切腹します。これは織部の影響力の排除が目的だったとも言われています。
茶の湯とファンマーケティングに通ずる注意点
利休と織部は二人とも茶湯を通じて得た政治力を権力者から危険視されて身を滅ぼします。
そして、この二人の後を継ぐように、三代将軍 徳川家光の茶湯指南役となったのが小堀遠州です。
豊臣秀長の家老だった父 正次とともに茶湯に親しみ、織部から正式に学ぶようになります。
遠州は利休と織部の最期を見てきただけに、幕府との関係性を重視し、公家との交流を極力避けています。
強固なファンを生んでしまう茶湯がもつ政治的な一面を警戒し、疑惑を持たれないように心がけていたようです。そのおかげもあり、伏見奉行など幕府内での重要な役目を任されています。
遠州も師匠たちと同様に、入手困難となっている茶道具に代わり、新しい茶道具を発掘し、これに命名するなどブランディングをしてプロデュースをしています。それは中興名物と呼ばれるものになります。
しかし、慎重に活動していた遠州でしたが、晩年には公金横領の嫌疑を掛けられてしまいます。ただ、これは茶湯を通じて親しくなった譜代大名たちのおかげで罪を免れています。
現代のファンマーケティングも顧客と密接につながることを目的としています。一方で、その接し方や情報発信の内容によっては、その身を亡ぼす炎上リスクを抱えています。
一度の炎上で、長年培ってきた商品やブランドのイメージを大きく毀損させてしまう事もあります。
特に「ファンミーティング」や「SNS等オンラインでのネットワーク」における閉じた空間での発言などには、漏洩リスクなどがあるため十分に注意が必要です。
また、いつの時代でも閉ざされたコミュニティというものは警戒されます。
利休や織部は自身の茶湯の追求に拘りすぎたため、強力な支援者でもある秀吉や家康への配慮が不十分だったようです。
遠州は自身の行動があらぬ誤解を生まぬように注意を払い続けたおかげで、最後に大きな差を生んだのかもしれません。
このように戦国時代の茶湯の事例からも、ファンマーケティングは権力者を警戒させるほどに強力な施策であることは間違いないようです。
使い方に十分な配慮や注意を払えば、時代を問わず最高のマーケティング手法だと思います。
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