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「広報・PR」を組織の発展に活用した織田信長・豊臣秀吉たち【歴史の偉人に学ぶマーケティング 連載第5回】

2024.9.20
読了まで約 7

歴史の偉人たちの戦略を、中小企業診断士の森岡健司氏が解説する本連載。第5回は、源頼朝や織田信長、豊臣秀吉などの天下人が行なった広報・PRの手法と組織への影響力を解説します。

「広報力」が天下統一に欠かせない理由や、戦国時代に京都の扱いが重視されていた理由、そして茶会や大花見、大名行列などの各種イベントのPR効果を、現代の視点で分析します。経営やマーケティングにつながるヒントを、時代の覇者たちから学びましょう!

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広告とは違う広報・PRとは

広報・PR(パブリックリレーションズ)は、広告とは違います。また、一般的に混同されがちですが、広報とPRには微妙に違いがあります。

広報とは、企業や政府自治体などの組織が、自身の活動や商品サービスについて、情報発信することをさします。

ターゲットは自身の組織のステークホルダーです。そのため対象となるのは顧客だけでなく、株主や取引先、従業員などの組織のメンバーも含まれます。

そのため外部向けと内部向けの広報があり、使い分けられています。

中小企業においては知名度向上の目的のために外部向けの広報が中心となりますが、従業員の多い大企業などでは外部向けは当然ですが、内部向けの広報もかなり重要になります。組織の内部統制や従業員のモチベーションの向上のために活用されています。

PR(パブリックリレーションズ)は、第一次世界大戦時の国民感情を操作するプロパガンダのツールとして発展したものと言われています。

下記のように、広報のターゲットよりもさらに幅広く、一般大衆も含んだかなり幅広いものとなります。

1) 顧客
2) 取引先
3) 株主・投資家
4) 従業員・スタッフ
5) 行政
6) 金融機関
7) 一般大衆

そして一方的に情報を伝達するだけでなく、ステークホルダーからの意見を集め活動に反映する姿勢を見せることで長期的な関係性を築こうとする点に違いがあります。

情報発信に加えて、良好な関係性の構築までを含んでいるのがPRです。

ステークホルダーとの良好な関係性の構築は、戦国時代であっても組織の維持・発展に重要な要素でした。

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マーケティングにおけるプロダクト広報とは
公式ホームページの役割と広報視点から見た運用方法
ステークホルダーとは何か簡単に解説。企業にとっての重要性と関係構築のポイント

戦国時代でも重要とされるステークホルダーからの支持

戦国時代でも天下人になるのは軍事力だけでは厳しいのはご存知でしょうか?

確かに中世や戦国時代において、個人や組織が生き残るためには武力というのは非常に大切な要素でした。

家臣や領民の生活と生命の安全を守り、自勢力を維持・拡大させていくためには、敵と戦うための軍事力や武力は強く求められます。

地方や地域を治めるレベルであれば、武力だけで足りるかもしれません。

しかし、日本全国を支配下に置くには、その他の力も必要となります。

例えば、平家が政権を握っていた平安時代末期に、現在の長野県を拠点としていた木曾義仲は軍を率いて快進撃を続け、武力でもって京の都から平家を駆逐します。

強力な軍事力を有していた義仲たちですが、その姿恰好は、文化の中心地でもあった京の住人たちからすると、非常にみすぼらしいものに見えたそうです。

さらに武士が飢えから京や周辺で略奪や狼藉を働いたため、朝廷や住民からの評判は悪化し、京における義仲の立場は苦しいものになりました。

そして、京の住人からの手紙や口コミによって全国に評判は伝わっていきます。

一方で、源頼朝は朝廷や京の民衆の支持を意識して、平家が横領していた土地の返還に加えて、京での略奪を防ぐために、上洛軍の兵糧対策を行うなど抜け目ない処置を施しています。

頼朝は敢えて最初から朝廷や都の住人たちの支持も意識して行動しています。また、日本全国への波及効果も見越していたと思われます。

このように自身の組織の活動方針を、ステークホルダーを通じて全国に広く知らしめようとした点は、現代の広報・PRに通じるものがあると思われます。

関連リンク:口コミとは?意味やマーケティングでの活用方法

戦国時代の天下人にとってのメディアとステークホルダー

戦国時代とは1467年の応仁の乱から1568年の織田信長の上洛までの間とされていますが、一般的には江戸時代初期ぐらいまでをイメージするかと思います。

戦国初期においては、下記のように家臣や領民に加えてキリスト教の宣教師たちも戦国大名にとってのステークホルダーと考えられます。

1. 家臣
2. 領民
3. 朝廷
4. 室町幕府
5. 商人
6. 寺社
7. 自治都市
8. キリスト教の宣教師
9. 京の民衆

特に勢力を大きく拡大するには、朝廷や室町幕府という全国に影響力を有するステークホルダーとの良好な関係性の構築は重要となります。

この当時、情報を各地の勢力などに伝えていたのが、公家や商人、僧侶、連歌師、山伏、茶人たちと言われています。彼らが現代のメディアのような役割も担っていました。

そのため、彼らが出入りする京という都市は、情報ネットワークの中心地でもありました。

織田信長が無理をしてでも室町幕府の再興を支援し、京の都へ上洛したことの意味はかなり大きいものでした。

織田家の評判は京を通じて勝手に全国に伝わり、一躍その名を知られることになりました。

しかし、将軍足利義昭との関係悪化により、悪評を全国にばらまかれてしまいます。

現代で言えば、強力なメディアもしくはステークホルダーを敵に回したような感じでしょうか。その後、信長は非常に苦労する事になります。

一方で、豊臣秀吉は朝廷や公家との関係性を強化して、全国に豊臣政権を知らしめることで、自身の地位を向上させることに成功したと思います。その後も京を重視していきます。

逆に、徳川幕府は日本の情報ネットワークの中心地を京から江戸へ変えるように仕向けていきつつも、信長や秀吉に負けない巷の評判を呼ぶような大規模な活動を行っていきます。

信長の御馬揃えと安土城の左義長という広報PR活動

信長は1581年に京の内裏において、京都御馬揃えと呼ばれる軍事パレードを開催しています。当時としては、かなり大規模なものだったようです。

これは朝廷および京の民衆に織田家の武威を示すためという説もありますが、最近では正親町天皇の要望によって開催されたと言われています。

馬揃えには、丹羽長秀や柴田勝家などの織田軍の諸将に加えて、近衛前久など馬術に優れた公家衆も参加しています。メディアやステークホルダーを巻き込んだ広報活動と言えそうです。

普段乗り物での入場が禁止されている内裏に、織田家は馬上で入れるほど天皇から信頼を得ている点を世間に知らしめる事ができたと言われています。派手好きな秀吉は敵と対陣中であったため参加できず、非常に悔しがった様子が残されています。

この馬揃えの高い評判は口コミで畿内の民衆へ伝わり、次の月に開催した馬揃えには、見物客が押し寄せて京の町は大混乱になったようです。

その後、安土城下でも公家衆を招待して馬揃えを開催し、城のお披露目も兼ねたイベントとして活用しています。

信長は馬揃えを利用して、朝廷や京周辺の住民との関係性を向上させつつ、その口コミを通じて全国にも織田家の認知度を拡大できたようです。

馬揃えの広報・PRとしての価値は非常に高いものだったと思われます。

また居城である安土城が完成すると正月には左義長と呼ばれる火祭りとして、城下町で爆竹を鳴らし、馬を大量に走らせるなどの衆目を賑わす行事を開催しています。

この左義長の評判を聞き及んだ正親町天皇が、京でも左義長をと要望したことが発端となり、馬揃えに繋がったと言われています。この安土でのイベントは広報活動としては成功したようです。

信長はお盆には城下町の明かりを消させて、安土城の天守閣のみを提灯で明るくし、現代でいうライトアップを行っています。そして、琵琶湖には松明を載せた船を浮かべて幻想的な風景を浮かび上がらせています。

こうしてみると信長は広報PRの効果を意識していたように思われます。

関連ソリューション:ProFutureのイベント事業

秀吉の大茶会と大花見という広報PR活動

秀吉は派手好きな性格もあってか、信長の馬揃えのような武張ったものよりも、華やかなものを好んだようです。

その中でも有名なのが北野大茶湯と吉野の花見、醍醐の花見です。

1587年に九州征伐を終えた秀吉が、武士、町人、百姓などの身分を問わず茶の湯に心得のあるものは北野天満宮での茶会に参加するよう御触書を出します。

また公家や大名、茶人などには書状を出して直に参加を呼びかけています。これは全国に豊臣政権の権威を知らしめるためのもので、秀吉の発案による天下を治めたという広報PR活動の一環だと思われます。

千利休や今井宗久など有名な茶人に加えて秀吉自身も茶を振舞いました。結果として、畿内から多数の参加者が集まり、その数は1,000人に達するほどだったと言われています。

茶会の参加者たちの口や筆を通じて秀吉が天下人であることを認知させる事に成功しています。

1594年に、秀吉は公家、家臣、茶人、商人、連歌師など総勢5,000人を引き連れて、奈良の吉野において、これまでに類を見ない大規模な花見を開催しています。

現在の奈良県吉野郡吉野町にある吉水神社に陣を敷いて、5日間も豪華絢爛な歌会や茶会、能会が催されました。

ここでは秀吉ならびに徳川家康や伊達政宗も茶屋を立てて、それぞれが仮装して茶を楽しんだそうです。この花見には庶民も参加できたようで、非常に評判がよかったと言われています。

これは豊臣政権だけでなく吉野の桜を世に知らしめる効果もあり、現在でも吉野は桜の名所として有名で、奈良有数の観光の名所となっています。

そして、1598年には京都の醍醐寺の裏山にて大規模な花見を催しました。

招待客は諸大名とその配下の女房衆という女性に限定された特別な花見でしたが、総勢1300人が着飾り、非常に華やかなものだったようです。この衣装代だけで現代の相場で39億円ほど掛かったそうです。

この大規模な花見は醍醐寺の座主であった義演が、応仁の乱で荒廃していた醍醐寺の復興と死期の近い秀吉の最後の晴れ舞台として用意したと言われています。

秀吉は戦国時代が終わったことを知らしめるような大規模かつ華やかな広報・PRを行っています。

家光の大名行列による広報PR活動

徳川幕府の草創期であった家康と秀忠の代ではあまり広報・PRのような活動は見受けられませんが、三代将軍家光は武威を示すために色々と試みています。

家光は特に大規模な軍勢を率いて、京への上洛と日光東照宮への社参を行っています。

1626年に後水尾天皇の行幸のため、父秀忠と共に、伊達政宗や佐竹義宣などの大名や旗本などを従えて上洛しています。

秀忠死後の1634年にも大名、旗本、総勢30万人も引き連れて上洛することで、三代将軍としての武威を全国に示しています。これもかなり大規模なものだったようです。

また、上洛の際には朝廷への献金に加えて、京の民衆にも祝儀をばらまくなど100万両以上を使って良好な関係性の構築も図っています。

まさに家光の威光を示すためのPR活動の一環として行われたイベントと考えられます。祝儀についてなどは、特に京の情報ネットワークを意識していたからだと思われます。

日光東照宮への参拝にも大名や旗本を引き連れており、その動員される人馬の数は相当膨大なものだったと言われています。

行列の先頭が日光についても、最後尾はまだ江戸であったと言われるほどの規模だったようです。

これにより全国の武士だけでなく、庶民に至るまで徳川家の武威を知らしめる効果が期待されました。現在でも栃木県を全国に知らしめる観光資源として日光東照宮は活用されています。

家光は存命中に上洛を3回、日光社参を10回も行っています。家光以降は幕府による政治も安定し、幕府の財政も厳しくなってくると、どちらもあまり行われないようになりました。安定した時代になると広報PRをする必要性が低下していたようです。

ただし、幕末において幕藩体制が揺らぎ始めたころになると、14代将軍家茂は1863年と1865年に上洛して、徳川幕府の武威を全国にあらためて広報PRしようと試みています。

これは時期を逸してしたのか、効果はあまりなかったように思われます。

今も昔も重視される広報PR

戦国時代の信長や秀吉たちは、政権の広報PRを、馬揃えや花見などの行事やイベントを通じて行っています。

元々、織田家、豊臣家、徳川家は源氏や平氏に連なる名家という訳ではないため、全国での認知度があまり高くありませんでした。

政権を安定的に運営していく上でも、その存在を全国に知らしめる必要がありました。

現代でも中規模の企業やベンチャー企業が広報PRを通じて、認知度やブランドイメージの向上を図ろうとすることに通じるものがあります。

また、重要なポイントが、京や周辺に住む一般庶民の目に触れるように行われている点です。これは庶民の口コミによる波及効果を期待していると思われます。

この辺りも、現在のSNSを利用した広報PRにも通じるものがあります。このように、今も昔も形は違っても広報PRは重要な施策でした。

ちなみに、戦国時代の広報PRの失敗例として、信長と足利義昭の関係悪化は有名な事例です。

信長が強力なステークホルダーでもあり、メディアとしての効果も有する足利義昭と敵対してしまったことで、全国に誹謗中傷を振り撒かれて、戦国大名たちから反感を持たれて、非常に苦労することになります。

有名な信長包囲網という織田家による天下統一への反対運動です。これによって何度も滅亡の危機に見舞われています。

このあたりも現代の広報PRの反面教師的な教材として活かせそうです。

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執筆者

森岡 健司

森岡 健司(もりおか けんじ)

モリアド代表 中小企業診断士
前職にて企業の海外WEBマーケティングの支援に従事。独立後に中小企業診断士の資格を取得し、主に企業の経営サポートやWEBマーケティングの支援等を行っている。
2019年から、現代のビジネスフレームワークを使って戦国武将を分析する『戦国SWOT®』をスタート。
2022年より、歴史人WEBにて『武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」』を連載。
著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

※プロフィールに記載された所属、肩書き等の情報は、取材・執筆・公開時点のものです

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