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新一万円札の顔・渋沢栄一とマーケティングの祖父ドラッカーの言葉【歴史の偉人に学ぶマーケティング 連載第2回】

2024.7.3
読了まで約 6

中小企業診断士で『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』の著者である森岡健司氏が、戦国武将や歴史の偉人たちの戦略を解説する本連載。前回の織田信長に続き、第2回は新一万円札の顔であり「近代日本経済の父」として知られる渋沢栄一にスポットを当てます。

「マーケティングの祖父」と称されるドラッカーが高く評価した渋沢の業績や、社会貢献などの理念に注目し、大河ドラマ『青天を衝け』でもライバル関係が描かれた岩崎弥太郎との対比や、三井家との関係性などについても解説します。渋沢とドラッカーの共通点を通じて、現代のビジネスに役立つ重要な教訓を学びましょう。

ドラッカーが高く評価した新一万円札の渋沢栄一

ピーター・ドラッカーが高く評価している日本人をご存じでしょうか?

ドラッカーはマネジメントの父と言われ、40冊近くの著作を残し、マーケティングに関しても数々の明言を残しています。

マーケティングの大家であるフィリップ・コトラーは「私が現代マーケティングの父なら、ドラッカーは現代マーケティングの祖父である」とドラッカーを賞賛しています。

そのドラッカーから高く評価され、著書などにも取り上げられた日本人経営者がいます。

それが2024年7月から新一万円札にデザインされる渋沢栄一です。NHKの大河ドラマ『青天を衝け』で主人公として注目を集めました。

ドラッカーは著書において次のように評しています。

「渋沢栄一が、誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した」

「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」

このようにドラッカーは、現在の経済大国の基礎を築いた先人として、渋沢の事を非常に高く評価しています。一体、渋沢とはどんな人物だったのでしょうか?

農家から武士、そして日本資本主義の父になった「渋沢栄一」

渋沢の出身地は武蔵国榛沢郡で、現在の埼玉県の北西部にある深谷市にあたります。

生家は藍玉の製造販売や養蚕、麦の栽培なども手がける農家で、渋沢市郎右衛門とえいの長男として生まれます。

染料の仕入れから加工、販売までを小さい頃から手伝っていたため、農家でありながらも商人としての一面も鍛えられていたようです。

小さいころから論語や四書五経を学び、江戸へ剣術修行のため遊学もしています。渋沢も尊王攘夷の思想を持つようになり、志士としての活動を始めようしますが、紆余曲折を経て後の徳川慶喜の家臣に取り立てられます。

そして、慶喜の異母弟の徳川昭武の随員に選ばれて、フランスで開催されたパリ万博を視察することになります。先進国での数々の体験がその後の渋沢の考え方の基礎となります。

この渡航中に大政奉還、戊辰戦争、新政府発足があり、渋沢が帰国した時には日本の国家体制は大きく様変わりしていました。

渋沢は新政府への出仕を命じられ、大蔵省で貨幣制度の整備などに尽力します。

この頃に、大隈重信たちと共に富岡製糸場の設立を主導しています。また福沢諭吉と知り合ったのもこの大蔵省時代です。

その後、予算編成での対立を理由に退官します。それからは一貫して民間の経営者として銀行の創設だけでなく、造船所や保険会社、鉄道会社、建設会社など多岐に渡る企業の創業に関わっていきます。

その数は400〜500社以上とも言われ、そのうち167社ほどが現存しています。

ENEOS、KDDI、三井物産、みずほ銀行、関西電力、東京海上日動火災保険、損害保険ジャパン、第一三共、キッコーマン、日本水産、住友重機械工業などと、業種業界は多岐にわたります。日本資本主義の父と称されるようになります。

これらの実績をドラッカーは非常に高く評価しています。それは、ドラッカーが渋沢の中に何か自分と共通する要素を見出していたからかもしれません。

そこで、ドラッカーが残した名言から渋沢の考えや事績を見てみたいと思います。

マーケティングの目標は「市場での最適な地位」

ドラッカーは著書において、マーケティングの目標とは「企業が市場において目指すべき地位は、最大ではなく最適である」と語っています。

これは新しい市場においては1社が独占するよりも、複数の企業で競争する方が市場の健全な発展につながるという考えによるものです。

市場を1社が独占してしまうと、その企業は安定的な利益が得られることで、今以上の成長や革新を忌避するようになります。結果として市場は停滞し、縮小してしまいます。

加えて、このような価格支配力を持つ企業に対して、顧客側は大きな抵抗感を感じるようになります。

明治時代の初期、日本の海運市場において、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社は徹底した値下げ戦略を実行し、海外企業や中小企業の排除に成功しました。それにより、海運市場をほぼ独占します。

郵便汽船は価格支配力を手に入れたことで、今度は高額な運賃を要求するようになっていきました。この岩崎の方針に政財界から不満や懸念が膨らんでいきます。

市場の発展を重視する渋沢は郵便汽船に対抗するために、政治家や三井家などと共に、新たに共同運輸会社を設立します。

共同運輸会社が低価格化で参入すると、郵便汽船も値下げで対抗し、一気に顧客を意識した市場へと変化しました。

但し、この競争は感情的な激しさを伴ったのか、顧客満足ではなく、ライバル打倒に重きを置くようになり、両社ともに疲弊していきました。

最終的には共倒れによる市場の崩壊を防ぐために、渋沢は郵便汽船三菱会社と共同運輸会社を合併させて、市場での最適な地位を再度模索します。

渋沢たちによる市場の最適化は激しい価格競争となりましたが、その後の海運業界に大きく寄与しました。

関連リンク:CS(カスタマーサティスファクション)とは?顧客満足度向上のための施策や具体例を解説

企業とは「営利組織」ではない

ドラッカーは著書の中で、「企業とは何かと聞けば経済学者も含めて営利組織と答えるが、それは間違いであり、的外れである」と語っています。

企業の目的は利益を追求する事だと思われがちですが、利益は存続していくための条件であり、目的は別にあるとしています。

企業が目的とすべきは社会への貢献だとしています。その目的のために高い利益を上げる必要があると言います。

ドラッカーの視線は企業単体の利益の最大化に留まらず、その先にある社会全体の発展に向いています。

渋沢もまたドラッカーと同様に企業単体の利益ではなく「公益を追求する目的を達成するために、最も適した人材と資本を集めて事業を推進させる」という考えの元で活動していたと言われています。

この考え方は、現代では合本主義と呼ばれています。

渋沢も企業の目的は自己の利益の増大ではなく、社会全体の利益とも言える公益を拡大することにあると唱えています。

また組織のリーダーも、その目的を理解し行動できる人であるべきと考えているため、自分が立ち上げた企業や組織であっても、適切な人材を発掘、育成してトップの座を譲っていきます。

渋沢が銀行の設立に積極的に関わったのも、資本を持つ一部の者たちによる独占を防ぎ、社会や市場の発展を促すために広く資本を集め、それを流動的に有効活用できる社会システムの構築を目指していたためです。

これは第二次世界大戦後の財閥解体を経て、やっと渋沢の理想に近づいたと思われます。

3つの領域における「貢献」

ドラッカーは「あらゆる組織が3つの領域における成果を必要とする」と語っています。

ドラッカーが説く3つの領域とは

1.直接の成果
2.価値への取り組み
3.人材の育成

をさしています。

1つ目の直接の成果は会社では売上や利益などで、経営者としては当然とも言える貢献です。

2つ目が価値への取り組みとし、業種によって違いがあるものの新技術によって市場に変革を起こす、商品とサービスで顧客に新しい満足を提供するなど、社会における貢献です。

最後は人材の育成で、組織が永続していくために変化する環境に適応できるようマネジメントができる次代の経営者を育てることです。

ドラッカーは組織にとって、この3つの成果は重要だとしています。

渋沢もこれらを重視しており、人材の育成についても数々の実績を挙げています。

有名なものとして大手ゼネコンの清水建設での経営者育成の例があります。清水組三代目代表の清水満之助が急逝した時に、相談役に就いて幼い四代目を支えながら、経営者としての育成を行っています。

また後に阪神電鉄の社長となった外山脩造の例もあります。大蔵省時代の上司である渋沢から大阪第三十二国立銀行の総監役を斡旋されたことをきっかけに銀行経営に携わっていきます。阪神電鉄以外にも、数多くの会社設立に関わっていきます。

現代の東洋紡の前身である大阪紡績の社長 山辺丈夫は、渋沢が資金援助しイギリスで経済学、機械工学などを学ばせています。近代日本の紡績業の発展に貢献しています。

現IHIの母体となる石川島平野造船所の平野富二を、資本だけでなく経営面において支援しています。平野死後は渋沢が会長として経営指導し、東京湾汽船社長などを歴任する梅浦精一などを育てています。

渋沢は一橋大学の起源となる商法講習所の運営に参画するなど、社会に貢献する人材の育成を続けていきます。同志社大学の設立のため新島襄を支援しています。

関連リンク
人材育成の主な課題、目標設定の考え方とは?マネジメント方法について解説
マネジメントとは?定義や役割、マーケティングにおけるKPIマネジメントについて解説します

ドラッカーが賞賛したもう一人の日本人岩崎弥太郎

渋沢以外にもドラッカーが高く評価した日本人経営者がもう一人います。それは渋沢と海運市場で戦った三菱の創業者である岩崎弥太郎です。

岩崎は現在の高知県である土佐藩の地下浪人から郷士となり、その事務能力が認められて長崎で貿易業務に着きます。そこでは坂本龍馬の海援隊の残務処理などに当たっています。

海運業を主軸とする九十九商会を発展させて、後の三菱商会を創設します。政府の軍事輸送を一手に担った事で海運市場を独占するようになります。政商と呼ばれる所以でもあります。

岩崎は利益追求を重視し、資本と経営の一体化を理想としていました。その理想は受け継がれ、海運業を母体として様々な事業を展開していき、三菱財閥が形成されます。

三菱財閥は昭和期には8大財閥の一つとなったものの、第二次世界大戦後にGHQによって日本の軍国主義に加担したとして、財閥解体に指定されます。三菱商事や三菱UFJ銀行を擁する現在の三菱グループとなります。

一方、渋沢は公益を重視し、資本と経営の分離に拘ったため、渋沢家の資産管理会社しか残されず、唯一大株主である渋沢倉庫以外は、設立に関わった企業であっても数%の株式しか保有していませんでした。利益を独占するような財閥を形成しませんでした。

岩崎は利益を追求する姿勢で経営に臨んだため、公益を重視する渋沢とはよく比較されます。

但し、どちらも名字帯刀を許されただけの低い身分から武士身分となったものの、実業の世界に魅入られて民間の経営者の道に進んだ点は共通しています。

ドラッカーは明治という時代において、二人が残した遺産は大きいと評価しています。しかし、岩崎が重視するのは利益の最大化とし、渋沢は人材育成も含めた公益の拡大としています。企業経営において二人の価値観は、ある意味対局にありました。

但し、ドラッカーはどちらも企業経営には重要なものだとしています。特に近代化が遅れていた明治の日本においては、この二人の考えによる競争こそが、急速な社会や市場の発展を促進させたとドラッカーは考えたのかもしれません。

渋沢栄一とドラッカーに共通する考え方

渋沢は「公益を追求するために適した人材と資本を集めて事業を進める」という合本主義を広めることを使命としていたと言われています。

合本主義を貫く渋沢は会社を設立しても後に経営を他者に任せていったため、三菱や三井のような財閥を形成することはありませんでした。

渋沢の死後に残されたのは資産管理を目的とした渋沢同族株式会社ぐらいでした。しかし、第二次世界大戦後の1946年にGHQによって、その渋沢同族株式会社を財閥だと誤認指定され、解散命令を出されてしまいます。

その後、GHQは誤認であった事を認め、社長の渋沢敬三に指定解除を申し出るように通達しますが、自身が戦時中に政財界に深く関わっていた経緯もあり、1947年に渋沢同族株式会社を解散させます。

これは祖父渋沢の公益の精神を引き継いだがゆえの行動と言われています。

ドラッカーもまた企業が利益のみを追求する姿勢に批判的であり、社会への貢献こそが至上命題だとしています。

一企業の都合ではなく、その先にある世界を見据えている点が、二人に共通しているところだと思います。ドラッカーが渋沢を高く評価しているのも、この共通点が大きいかもしれません。

だからドラッカーの名言と渋沢の事績に重なる点が多いのだと思います。

ちなみに、渋沢と岩崎の二人以外にもドラッカーが高く評価した近世の日本人がいます。それは三井グループの創業者である三井高利です。

1650年頃に世界に先駆けてマーケティングという概念を商売に持ちこんで成功させたと賞賛しています。

三井家は幕府御用の商家となり、明治維新を迎えています。渋沢は三井家とも縁があり、後の三井物産や三井製糖など三井系の企業の創設や経営にも関わっています。

渋沢がこの三井家と組んで共同運輸会社を設立し、郵便汽船三菱会社の岩崎と対立するのは偶然とはいえ、ドラッカーが賞賛する日本人たちが一方で共闘し、また一方で競争する点は歴史の面白さだと思います。

関連リンク:マーケティングとは?基礎から重要ポイントまで初心者にも分かりやすく解説

執筆者

森岡 健司

森岡 健司(もりおか けんじ)

モリアド代表 中小企業診断士
前職にて企業の海外WEBマーケティングの支援に従事。独立後に中小企業診断士の資格を取得し、主に企業の経営サポートやWEBマーケティングの支援等を行っている。
2019年から、現代のビジネスフレームワークを使って戦国武将を分析する『戦国SWOT®』をスタート。
2022年より、歴史人WEBにて『武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」』を連載。
著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

※プロフィールに記載された所属、肩書き等の情報は、取材・執筆・公開時点のものです

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